夏目漱石ギフトセット
「草枕」
与えれらたテーマを見て、こう考えた。
金にがめつけば角が立ち、時間にただただ流される。善人を通せばきまりが悪い。とかくにこの題目は書きにくい。書きにくさが高じると、誰かに引き渡したくなる。誰にも引き渡せないと悟った時、覚悟が生まれて、文章ができる。
何の課題かは忘れたが、お金もしくは時間について書いてこいと言われたことがある。どちらか選ぶのは面倒くさいから、両方扱うことにして、書き出しにパンチが欲しいと思ったところ、この『草枕』のパロディに思い至った。それが冒頭の数行だ。いま見るとくだらないが、わたしのパロディ好き(下手の横好きだけど)が確認できる。しかし、パロディをやりたくても、何をパロディすればいいのかが難しい。
「答えを考える学者は二流だ、問いを用意する学者こそ一流だ」 これはトーマス・クーンの『科学革命の構造』を愛する教授の言葉だが、本当にそうだと最近気付いた、ちょっと遅いか。パロディといえば週刊朝日、むかし「パロディ百人一首」という連載があって、丸谷才一と井上ひさしが撰者となり、読者の投稿に朱を入れていた。たぶん20年くらい続いていたと思う、もちろんこの『草枕』の冒頭も題材になった。えっ、『草枕』の話をしろって。この小説は手ごわ過ぎてわたし程度には手に負えない、誰かに引き渡すことにしましょう。
「坊っちゃん」
誰か一人作家の作品を禁じられるとして、いちばん困るのはやはり夏目漱石ではあるまいか。かくいう私はそうだ。志賀直哉なんて忘れたし、谷崎や三島とかは外国にくれてしまえ。古事記と源氏と漱石が日本をつくったと威勢を張ってみる。すこし時がたつ。野暮なことを吐かしたと反省し、口を漱ぎに川へ行く。
先般、ジェイムズ・ヒルトンの『チップス先生さようなら』を読んだ。愉快だった。変わったことも考えた。これを漱石先生が読んだらたいそう喜ぶのではないか?という想像、くだらないが丸めて捨てるには惜しい。多くの点で対照的だけれど『坊っちゃん』と並べてみたくなる。並べても仕方ないから『坊っちゃん』の方も読んでみた。こちらも愉快だった。
ところで、これは差別小説ではないだろうか。田舎や地元人の悪口しか出てこない。褒められるのは温泉だけだ。愛媛松山はどうしてへそを曲げないのだろう。『坊っちゃん』の舞台であることをいちばんの誇りにしている。小説の仕舞いを読んだのだろうか。あんなに嫌われているのに。主人公の人柄が憎めないのが大きいか。江戸っ子持ち前の気っ風のよさに加え、何度も出てくる清へのあたたかい思い。うらなりへの同情。わるい人ではないのは本当だろう。
私も田舎がきらいだ。田舎の観光街で買物をすると、懐かしい千円札をお釣りでもらってすこしおどろく。そうして帰り際に、これだから田舎は困るとつぶやいてみたくなる。
「硝子戸の中」
困ったときの夏目漱石とはよく云ったもので、彼は、日本人のあらゆる悩みに対応してくれる。もっとも、いちばん悩んでいたのは彼自身であり、その悩みが彼を今の地位に導いたし、同時に黄泉へと導いた。
近ごろ、わたしは自分を見失っている。ちょっと古風な云い方で恰好をつければ、憂色に包まれている。大丈夫、ご心配していただくには及びません。まともな感性を持つ人ならば、年に何回かは感じる気鬱が、毎年、寄る年波と伴にやってきて、わたしを不安にさせているのです。
そういうとき人間は、人間的な温かさや息抜き、または古典を読むときの安らぎに勇気付けられる。そこで夏目漱石の『硝子戸の中』を読んでみた。
うーん、面白い。漱石の真価はその書簡集にあり! と雄叫びをあげる人もいて、わたしも反対はしないが、この本のような随筆もなかなかいいぜ、と思う。まあ、詰まるところ彼の著作は概ねすべて読み応えがあるのだろう。
この『硝子戸の中』で云えば、自分を小説のモデルにして欲しいとか、自分の書いたものを見て欲しいとか、何か腹案を持って漱石のところに来る女性が幾人かあって、彼女らと漱石との交流がすこぶる面白いのだ。
しかし待てよ。わたしのところにはこういう女性は訪ねてこない。うわー、へこむわー、落ち込むわー。
やはり憂さを晴らすにはアニメや漫画がナンバーワン!